取材先のセクハラ、退職…逆境を乗り越えた原点は「前向きに生きる力」 | 元放送局記者 米田 久美子さん

【Molecule(マレキュール)】ライターの三木佳世子です。私が「このメディアで最初に伝えたい」と決めていた女性、元放送局記者の友人・米田久美子さんのインタビューを本日から2回に分けてお届けします。

昨年、テレビ朝日の女性記者がセクハラを告発、メディアの女性たちが一斉に#MeTooと言い始めた出来事を覚えていらっしゃるでしょうか?その時、真っ先に浮かんだのが、私と同じテレビ局の記者という幼い頃からの夢だった仕事をしていたのにも関わらず、セクハラが原因で退職せざるを得なくなってしまった友人、米田さんのことでした。彼女は、#MeToo運動が起きたことをきっかけに、自分自身の人生を改めて振り返り、意味付けをする作業を続け、私も微力ながらそんな彼女の歩みを横で見守って来ました。

過去の経験を語ることで、同じように苦しい思いをしている人の力になりたいと、今回の取材を引き受けてくれた米田さん。どん底を味わい、生きることすらやめようとまで考えた彼女は、どのように逆境を乗り越え、夢を更新し続けてきたのでしょうか。

小さい頃からの夢だった報道記者となり、「私の人生、順風満帆」って思っていました

株式会社アドバンテッジ リスク マネジメント 研修講師・米田久美子さん。新卒で小さい頃からの夢を叶え放送局記者となるも、取材先からのセクハラが原因で精神的に追いつめられ退職。現在は心の知能指数とも呼ばれるEQを扱う会社で研修講師として活躍。6歳と3歳の男の子育児中。

―記者として働くことは、いつ頃から意識していたのでしょうか。

放送局の記者になる、というのは小さい頃からの夢だったんです。というのも、母がアナウンサーで、テレビをつければ母が出ていて、ラジオをつければ母の声が聞こえるという環境で。私も人前に出て話すのが小さい頃から好きで、1カメ、2カメって向きを変えながら話をしたり、母親の真似をして遊んでいたくらい(笑)。

マスコミに入りやすいと考えて、大学は法学部を選択しました。ゼミの先生からの紹介で、薬害C型肝炎の患者の会に入って支援活動に携わる中で、小さな声を大きくして伝える、世の中を動かしていくことの大切さも感じました。自分の口で伝えたい。世の中にある色んな問題を仕事を通して知って、自分も考えたいって思ったんです。

―念願叶って、出身地 長崎の放送局に記者として採用されたんですよね。小さい頃の夢が叶うってすごいことだと思うのだけれど、その時の気持ちはどうでしたか?

正直、それまで人生で大きい失敗をしたことがなかったから、ラッキーってくらいだったかもしれません。また今回もうまくいった!っていう感じで、自分として、やり遂げた!みたいな達成感もありませんでした。実際に働き始めて1年目は、最前線で世の中の動きを見せてもらえている感じで、楽しかったです。

一方で、違和感もあって・・・記者の腕章をしているだけで、社長とか知事とか、偉い人たちが話をしてくれる、でもそれに慣れたらダメだなっていう。2年目になると、下に後輩の記者が入ってきて、今度は焦りが出てきたんですよね。自分もネタを取らなきゃ、活躍しなきゃっていう焦りで、夜討ち朝駆けに励むようになりました。

取材先からのセクハラ、上司は「我慢出来るなら行って欲しい」

記者って、夜討ち朝駆けと言って、情報が欲しいから警察とか関係者の自宅に通うんですよね。そこでものすごく葛藤するようになったんです。取材先から、若い女性として見られている・・・。それを利用してあわよくばネタを取りたいという思いと、そこまで割り切って自分の女性という部分を利用できない思いの間で、とにかく自分が嫌になって・・・。眠れない、食べられないという状態が始まりました。

日常業務にも支障が出るようになり、凡ミスして上司に怒られた時に初めて「実は、取材先からのセクハラに困っている」と打ち明けたんですが、なぜか激励会という飲み会が開催され、「我慢できるならそのまま取材先に行って欲しい」って言われたんです。それで私も、記者というのはそういうものなのかと出来るだけ頑張ろうとしたんですけれど、結局エスカレートしていくセクハラ行為に耐えられず、PTSDを発症し入院することになってしまいました。

―その時、ご自身のことをどう思っていましたか?

記者として失格だなと。自分がセクハラに耐えられれば良かっただけなのにと、当時は考えていて、とにかく自分のことが恥ずかしかったです。でも、まだ諦めていなくて。また記者に戻れるだろう、病気を治してまた、次はもっと頑張りたいって思っていました。しかし、上司から、異動を示唆されました。異動先は、ライブラリーという映像管理の部署。そして、その時に「あなたが経験したことは取るに足らないことだから、忘れなさい」とも言われて・・・記者にはもう戻れないんだなって突きつけられた気持ちになりました。

―幼い頃からの夢が、そこで一度消えてしまった感覚だったのでしょうか。

そうですね、何もなくなっちゃったな。私の人生終わっちゃったなと。当時24歳で、放送局じゃなかったら何するんだろう私って、病気にもなっていて、もう将来の夢なんて描ける状態じゃなくなっていました。そこから、もう生きていても仕方ないと考えるようになり、何度も自殺未遂を繰り返すようになって、入院することになったんです。

病院で起きた運命の出会い。人生のパートナーを引き寄せたのは「前向きに生きる」こと

―入院中に、結婚相手となる方と出会われているんですよね?

そうなんです。人生終わったと思いながらも、何かやろうと、入院中に行政書士の資格の勉強を始めたんです。その姿が別の入院患者さんの目に留まって、『前向きに勉強しているあなたを見て、友人(夫)のことを紹介したいと思った』とその人に言われました。どんな環境にあっても、見てくれている人はいるんだと感じましたね。それで夫を紹介され、当時東京に住んでいた夫と長崎の病院に入院している私との間で、遠距離恋愛が始まったんです

―お付き合いは、何か米田さんにとっての変化、きっかけになりましたか?

大きなきっかけでしたね!夫がいる東京に出る!というのが、その時の私の目標になりました。東京に出ていけば人生やり直せるんじゃないかって。東京に出て結婚したい、そのためには病院を出ないといけない、自殺未遂はやめようと思うようになりました。それで必死に治すことに集中し、2008年東京に出て行きました。

(後編は2月12日公開予定です)