スイーツコーディネーターの下井美奈子さん(以下、美奈子さん)は、筆者のママ友です。息子の小学校入学前、学童探しの最中に知り合い、フリーランスで仕事をする母同士、自然と親しくなりました。
子供を交えて会う機会も多いのですが、美奈子さんはいつも美味しいスイーツを用意してくれます。どのような素材を使っていて、どのような香りや味の特徴があるのか、作り手はどんな方なのか。美奈子さんは作り手への敬意とスイーツへの愛をもって、丁寧にそのスイーツの説明をしてくれます。
20代半ばに会社を辞めてフリーランスになり、スイーツコーディネーターとして「好きなことを仕事に」を20年間(!)ずっと実践してきた美奈子さん。結婚や出産などライフスタイルの変化が大きい時期に、好きなことを仕事にして長く続けるためには、どのような工夫や試行錯誤があったのか、経験談を伺ってきました。
目次
大企業のSEからパリ留学を経て、フリーランスのスイーツコーディネーターに

美奈子さんは、SEとしてキャリアをスタートさせた。大学卒業後、日本電信電話株式会社(分社化する前のNTT)に総合職として入社。最先端の通信技術を扱い、深夜残業が当たり前の忙しい日々を送っていた。
転機のきっかけとなったのは、入社3年目に受けた研修だった。これからどんな仕事をしていきたいか。何を大切にしていきたいか。それまで考える時間もなかった問いに向き合った。会社で働く現在の姿と大切にしたいことに、大きなギャップを感じた。
その頃ちょうど、母・佳子さんがシフォンケーキの本を出版することになり、美奈子さんもその手伝いをする機会を得た。佳子さんは美奈子さんが3歳のときにお菓子教室を始め、お誕生日やクリスマスにはいつも手作りのお菓子を作ってくれた。美奈子さんの幼少期の思い出は、佳子さんの手作りのお菓子とつながっている。
とっておきのお菓子は、記念日やイベントをより特別にしてくれるもの、食べるひとの心を豊かにしてくれるもの。今も変わらぬその想いは、その頃に持つようになったものだ。
同僚たちと始めた「OL美食特捜隊」の活動が、趣味の範囲を超えて広がりつつあったのも、この時期だった。ホームページを立ち上げ、食べ歩いたレストラン情報を掲載し、メルマガ配信もした。当時(2000年代前半)のネットは2ちゃんねるのイメージが強く、若い女性が顔写真入りで情報発信をするのは画期的だった。メディアの注目を浴び、ケーブルTVで番組を受け持ったり、書籍の出版にも至った。
「美奈子なら、スイーツの仕事、絶対できるよ」。
いろいろなタイミングが重なり、親友がそういって背中を押してくれたこともあり、美奈子さんはお菓子を仕事にすることに決めた。
会社を退職後、フランス語の勉強を始め、パリにある料理学校Ritz Escoffier(リッツ・エスコフィエ)に留学。お菓子作りを学びながら「OL美食特捜隊」の活動も続け、現地の食べ歩き情報の発信をした。当時はまだ日本に入ってきていなかった、ジャン=ポール・エヴァンやラデュレの美味しさも、このとき知った。
帰国後、生活総合情報サイト「All About」から声がかかり、スイーツガイドに就任。「OL美食特捜隊」の活動からつながった縁だった。佳子さんのお菓子教室を手伝う傍ら、お菓子やレシピの情報発信、テレビ番組でのコメンテーター、レシピ提供や商品開発など、仕事の幅がどんどん広がっていった。
出産後の葛藤も乗り越え20年 主軸はライター業に
ー 20代半ばでスイーツコーディネーターのお仕事を始めて、20年間も続けてこられたのですね。その間、お仕事の内容にはどのような変化がありましたか?
スイーツに関わるというのは一貫していますが、仕事の内容にはいろいろな変化がありました。
パリから帰国して仕事を始めた当初は、母のお菓子教室の手伝い、「OL美食特捜隊」の活動、それからAll Aboutでの記事執筆の3つが柱でした。
いただいたご依頼に応じていくうちに、仕事の幅が広がっていきました。TVのバラエティ番組や情報番組にコメンテーターとして出演したり、お菓子のメーカーさんと一緒に商品開発やレシピ開発をしたり。
ウェブでのスイーツの情報発信はずっと続けてきましたが、ウェブ媒体の受けとめられかたにはとても大きな変化があったように感じます。2000年代前半だと、ウェブ媒体へのイメージがポジティブなものではなく、信頼度がまだまだ低かったため、取材のアポがとれなかったり、いざ取材という場で急にお断りされたこともあります。
ウェブ媒体に加えて、3〜4年前からは雑誌に寄稿させていただく機会も増えて、今はライターとしての仕事が中心になっています。

仕事の変化はしなやかに受け止め、柔軟なマイナーチェンジを
ー 20代から40代というと、結婚や出産など、ライフスタイルが大きく変わる時期でもありますよね。美奈子さんの働き方には、どういった変化があったのでしょうか。
私生活の変化に応じて働き方を変えてきた、という感覚はあまりないんです。こちらから仕事を選ぶような余裕はありませんでしたから、ご依頼いただいた仕事はできるだけお受けするようにしてきました。20年間で仕事内容は変わってきましたが、意図したわけではなく、ご依頼に応じていくうちに自然とそうなりました。
とはいえ、出産後は仕事のペースを落とさざるを得ず、やむを得ずご依頼をお断りすることもありましたが、毎回とても悩みました。一度お断りしたら、もう次の仕事をいただけないんじゃないかと、こわかったんです。でも、安易にお受けして結果できなかったとなれば、そのほうがご迷惑をかけてしまいますから。
お受けした仕事は絶対なので、時間のやりくりをしながら、ときには多少の無理をしながらも、なんとか必死にやってきたという感じですね。
ー スイーツのお仕事を辞めたくなったことはありますか?
もちろんありますよ。やはり、子供が小さい頃は大変でしたね。長男の出産後から次男が年長に上がるまでの6年間は、記憶が朦朧としています(笑)。
出産の3日後に病院のベッドで原稿の校正確認をしたり、息子を片手に抱えて授乳しながら原稿を書いたり。睡眠時間を削って子供たちが寝た深夜に仕事をしていたので、いつも睡眠不足で、身体もつかれやすかったように思います。
今はふたりとも小学生になったので、だいぶ楽になりました。
ー 分娩の3日後にベッドで校正確認!美奈子さんのやわらかな雰囲気や、華やかなお仕事の印象とは裏腹に、ストイックに仕事をこなされてきたのですね。
仕事というのは、こちらが一方的に「これがやりたい、あれがやりたい」といっても、できるものではないと思うんですね。ご依頼をいただいて対価を払っていただくためには、社会やクライアントが必要としている枠やポジションに、自分が当てはまる必要があります。
社会や人が欲しているものと、自分ができることが重なって、初めて仕事になりますよね。仕事はいつも「させていただいている」と思っています。だから、責任を持ってちゃんと仕事をして期限通りに納品するのは当たり前だし、自分なりに付加価値をつけてお返しできるように心がけています。

「好き」を仕事にすることを目標にする人も多いのではないかなと思います。20年スイーツの仕事を続けていく中で、「好き」な気持ちに変化はありましたか?
スイーツを好きな気持ちはずっと変わりません。スイーツって、栄養的に必ず必要なものではないけれど、食べるときに人の心を豊かにしてくれますよね。そういう幸福感を運んでくれるスイーツが、わたしは大好きなんです。仕事にしていなかったとしても、美味しいスイーツを食べることは趣味でずっとしていただろうな、と思います。
ただ、スイーツを仕事にしたからこそ、これだけの種類と量のスイーツを食べてきたんですよね。仕事にしたからこそスイーツに詳しくなった、という側面もあります。
たとえば、先日雑誌のお取り寄せ特集でスイーツを担当させていただいたのですが、仕事でなければこれだけ全国各地のお取り寄せ情報を調べ尽くしたり、実際に取り寄せて食べてみたり、というのはしなかったと思います(笑)。
コロナ禍でも、いまできることに目を向ける
ー スイーツを好きな気持ち以外に、20年間スイーツの仕事を続けてこられたのはどうしてだと思いますか?
長く続けていきたいからこそ、仕事がなくなることを気にしすぎない、というのはあるかもしれません。いろいろな事情で仕事がなくなるのは、仕方のないこと。そのたびに気にしていたら、つらくなってしまうと思います。
うまく受け流すことができるといいですよね。それに、仕事がなくなって隙間ができると、新しく始まることもあるんです。
たとえば、以前よくお受けしていたレシピ提供の仕事は、最近ではあまりしていません。今はレシピサイトなども充実していますし、レシピを作って発信されている方も沢山いらっしゃいます。その方たちのように毎日何種類ものレシピを作りつづけることは、わたしには難しいと思うんですね。
一方で、今仕事の中心となっているライター業では、ウェブ媒体に加えて、雑誌や新聞など紙媒体にも記事を書かせていただく機会が増えました。人に会って話を聞くのが好きなので、取材も多いライター業はより合っているのかもしれません。
パティシエの方のお話を伺う際には、幼少期から母のお菓子作りを見てきたことや、留学先で学んだ経験が生きているのかな、とも思います。執筆する時間をどう確保するかも自分で調節できるので、子育てとの両立がしやすいのもありがたいですね。
仕事がなくなったり、また新しく始まったりといろいろありますが、しなやかに受けとめて、柔軟にマイナーチェンジを重ねていけばいいんじゃないかな、と思います。
ー 美奈子さんにとってスイーツの仕事はどんな意味を持っているのでしょうか?
仕事のご依頼をいただけることはとてもありがたく、いつも「させていただく」という気持ちをもって仕事に臨んでいます。
仕事なので、大変なことももちろんあります。まだ妊娠を公にしていなかったときに、つわりを抱えながら特集企画でケーキを20個くらい食べたり、検査を控えていた日の午前中、イベントでお萩を食べすぎて、血糖値が高く出てしまい慌てたことも(笑)。
でも、私生活でいろいろなことが変わっていくなかで、仕事をしているときはいつも同じ自分でいられる、ということは大きいと思います。仕事をしているからこそ、妻や母ではない自分でいられる時間が持てることに、安心する気持ちもあります。
私生活でつらいことがあったときに、仕事に救われる経験もしました。身体を壊したり、肉親を亡くしたりといったすごくつらいときでも、仕事があるから、泣き伏せってばかりいられなくて。
身体を壊したときも詳しいことは周りに伝えていなかったので、やっぱり入院中のベッドで校正の確認をしてましたね(笑)。仕事をしている間だけは、そのつらいことを考えなくて済んだので、かえってよかったんだと思います。

ー コロナ禍によって、生活や心境に変化はありましたか?
家にいる時間が増えたことで、おうち時間をより充実させたい、と思うようになりました。
お取り寄せやネットショッピングをする機会が増えて、家の中にスイーツが溢れていて、幸せです(笑)。スイーツのお店やレストランでも、この春新しくお取り寄せを始めたところが増えていますよね。
コロナ禍で大変なことも沢山あるけれど、こういう状況だからできることもきっとあると思います。子供たちは、家族みんなで家で過ごす時間が増えたり、お取り寄せした美味しいものを食べられたりと、嬉しそうにしていますね。
ー これから、どういうお仕事をしていきたいですか?
そういう質問をいただく機会もあるのですが、ちょっと困ってしまうんです。というのも、先のことはわからないし、家族を持つと自分だけで決められないことも多々ありますよね。これからだって、どうなるかはわかりません。コロナ禍によって、その気持ちがより強くなりました。
目の前にあること、今しかできないことに注力する。あとは、そのときどきの状況に合わせて、その時点で決めていくしかないんじゃないかな、と思います。
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