災害大国の日本では、毎年どこかで災害が起きています。私たちの生活は常に地震や台風、水害などの天災と隣り合わせです。防災に関心をもつMolecule(マレキュール)読者も多いはず。でも、避難経路の確認や備蓄など、災害が起きる前の準備こそが防災だと思っている人も多いのではないでしょうか?「防災知識が役立つのは災害が起きる前だけではありません。心を守るためにも必要なのです」糸日谷美奈子さん(以下、糸日谷さん)はこのように話します。千葉県でわくわく実験工房を主宰するかたわら、2011年の東日本大震災の語り部をしている女性です。実験工房と語り部。異なる2つの活動の共通点はなんでしょう。また、東日本大震災を語り継ぐのはなぜなのでしょうか。身の回りはおもしろいものがあふれている糸日谷さんの「わくわく実験工房」は、1年かけて探究活動を行います。それぞれの子どもが自分でテーマを決め、実験や観察に没頭するのです。勉強は机に向かって教科書を読み、黒板をノートに写す―そんなイメージが未だに強いのではないでしょうか。テストや受験が最終目的になりがちです。でも、「それだけが学びじゃない」と糸日谷さんは言います。身の回りは、おもしろいものであふれている。「何気ない現象やちょっとした疑問も、掘り下げれば科学のおもしろさにつながる。みんな、もっと楽しんでいいんだよ」と伝えたい。それが糸日谷さんの思いなのです。そんな糸日谷さんは、自身の子どもたちにも「まずやらせてみて、あえて失敗させる」ことを心がけているのだとか。学びへの姿勢は子育てにも反映されているのです。ここには、公立中学校教員としての経験と果たされなかった思いが生かされています。時速36キロの津波を体験する防災教育大学卒業後、小学校講師を経て岩手県の公立中学校で理科の教員になった糸日谷さん。勤務していた沿岸部の釜石東中学校では、以前から津波を想定した防災教育が盛んでした。深刻なイメージのある防災ですが、釜石東中の生徒たちは「楽しかった」と振り返るのだそうです。たとえば津波の授業では、映像を見るだけでなく数学の速さの学習と関連づけて、校庭で時速36キロの車と生徒が競走し、速さを体験しました。また津波の恐ろしさを伝えるポスター制作をしたり、防災食を作ったりしたこともあります。「津波が来たら家族がてんでバラバラでもとにかく逃げろ」という三陸地方に伝わる教訓を「てんでんこレンジャー」という劇にし、生徒がYouTube動画にしたこともありました。釜石東中の防災教育は科学に限らず、その他の教科や身の回りのものごとと関連づけるのが特徴だったのです。私たちから見れば工夫を凝らした先進的な取り組みですが、それでも学校現場でできることには限界があったといいます。いたずら好きな子どもだったという糸日谷さんは、周りの人を驚かせたり、笑わせたりする中で、学ぶ楽しさに目覚め、教員になりました。しかし公立学校では、一人ひとりの教員の裁量は決して大きくありません。糸日谷さんは自分のやりたいことと、やらなければならないことのギャップに大きなジレンマを感じながら教壇に立っていました。そんな矢先に起きたのが2011年の東日本大震災でした。「私が死ねばよかった」知識で救われるものも海岸からわずか500メートル足らずの場所にある釜石東中学校。津波が迫る中、釜石東中学校と隣の鵜住居小学校の約570人は、約1.6キロ先の高台を目指して走りました。その後、高さ11メートルの津波が到達。4階建ての校舎はすべて水に浸かりました。避難した生徒と糸日谷さんたちは、全員助かりました。この出来事は、積み重ねられた防災教育が実を結んだ「釜石の奇跡」として、後に大々的に報じられることとなります。しかし、糸日谷さん自身は苦しさを感じていました。学校以外では生徒の家族を含め多くの人が亡くなり、「もっとできることがあったのでは」と後悔の気持ちにさいなまれたといいます。さらに本当に大変なのは、その後の生活だったのです。避難所の生活はメディアで伝えられる感動的な面だけではありません。被災者は、恐怖を感じたり大切な人を失う経験をしたりしたことで、ただでさえストレスを抱えています。自分たちはこれからどうなるのか。先が見えない不安や、悲しみとの戦いです。子どもたちは被害が少なかった地域とのギャップに苦しんだり、外部から派遣されてきたカウンセラーに自分の気持ちを話せなかったりしました。当時妊娠・出産を控え、担任を外れていた糸日谷さん。糸日谷さん自身も子どもたちを支える立場にありながら、なんと声をかけたらいいか分からなかったといいます。「普段から子どもたちと十分に関われていなかったことも大きかった」と悔やみます。凄惨な被災地の状況と、子どもたちのケア。教員でありながら、思うように動けない自分。糸日谷さんは「自分が死ねばよかったのでは」と思うまで追い詰められました。つらい時期は抜けられる。苦しさや後悔も隠さず伝える災害を経験した人の心理状態には4つの段階があるとされています。被災直後、感覚が無くなる「茫然自失期」、被災者同士の連帯が強まる「ハネムーン期」、そして不満ややるせなさが出てくる「幻滅期」を経て、復興に向けて前向きに動き出せる「再建期」。多くの人はこの過程をたどりながら立ち直っていきます。糸日谷さんが被災した時、このような知識はありませんでした。災害の現実や立ち直るまでのステップを知っていたら、周りの人も自分もあんなに苦しまずに済んだのではないか。目の前の厳しい現実を変えることはできなくても、知っているだけで安心できることもあるはず。被災経験を話す機会があれば、糸日谷さんは当時感じた苦しさや後悔を包み隠さず伝えています。「今、苦しい思いをしている人につらい時期は抜けられると伝えたい。同じ後悔を味わってほしくない。」震災から13年が経つ今も、糸日谷さんを突き動かし語り部としての活動を続けさせているのは、そのような思いからなのでしょう。「いつか」のために今を犠牲にしない。好きなことをする生き方「何もかも失うんだったら、これからは好きなことをして生きよう」震災を経験した生徒の言葉を、今も糸日谷さんは、忘れられません。「私もそうしよう」と深く共感した糸日谷さん。教員時代の糸日谷さんは、人の目を気にするところがあったといいます。やりたいことがあっても空気を読み、自分で自分にブレーキをかけていました。しかし、「どうせ新しいキャリアを作るなら、自分がしたいこと、楽しいことをしよう」と決めました。子どもの「分かった」ときや、予想と違う結果が出たときに見せる「なんでだろう?」の表情が好きな糸日谷さん。学ぶ楽しさを伝え、一人でも多くの人に伝えたい。自分と同じ後悔をしてほしくない。その後、糸日谷さんは出産を機に岩手県の教員を退職。家族と千葉県に移住した糸日谷さんが今の働き方を選んだのは、このような思いからでした。防災は暮らしの延長線上。心を支えるモノとつながり現在、糸日谷さんは「わくわく実験工房」の主宰と東日本大震災の語り部という二足のわらじで活動しています。実験工房では「防災理科実験のテーマをもっと増やしたい」と話す糸日谷さんは理科を手段に、子どもたちや保護者、地域と関係を深めていきたいと考えています。2021年には休耕地を借りて子どもたちや地域の人と野菜を育てる「マチナカ菜園」というプロジェクトを開始。クラウドファンディングで集めた資金を元手に、菜園の中に井戸を掘りました。災害時は真っ先に炊き出しができる防災拠点にしたいといいます。復興とは元の生活に戻していくこと。日常生活を取り戻していくにはモノや知識だけでなく、人と人のつながりが必要です。被災は究極の非日常だと考えがちですが、災害も復興も日常生活の延長線上にあります。日々の暮らしにあるものが、私たちの心を支えてくれるのです。備蓄品の中には好きなお菓子やお酒など、張りつめた気持ちをほっとゆるませるものも必要だと糸日谷さんはいいます。糸日谷さんのストーリーが私たちに問いかけるのは、地震対策に限りません。何もかも失っても後悔しない生き方を、普段からしているか。被災しても暮らしを取り戻せる知識やつながりをもっているか。この機会に考えてみませんか。わくわく実験工房糸日谷さんへの講演依頼