「実はこういう注射がありまして…」松本麻衣子さん(以下、松本さん)は、不妊治療中であることを静かに切り出しました。いま、仕事をしながら通院治療を続ける人が増えています。中でも不妊治療は予定が立てにくく、心身への負担も大きいもの。多くの人が両立に悩み、実際、働きながら不妊治療をした人の96%が「両立は難しい」と答えているのです。松本さんも通院のたびに「すみません」と言い続けながらも、周囲との関係を少しずつ変えていきました。彼女は特別な存在ではありません。日々の小さな工夫を重ねることで、不妊治療との両立を実現し、やがて社内初の女性管理職への道を切り開いたのです。その工夫は、意外にもシンプルなものでした。静かな決意。仕事と不妊治療の両立松本さんが不妊治療を始めたのは、広島市内のブライダル企業から呉市を中心に産業廃棄物処理等を手がける株式会社こっこー(以下、こっこー)に転職し、結婚間もない頃のことです。転職を決めたのは、家族のため。前職では土日の休みはほとんどなく、夜中0時過ぎの帰宅が続いていました。そんな中、松本さんの祖母が認知症になり、地元・呉市の近くで働きたいと考えたものの、片道1時間の通勤では祖母に会いに行くこともままならなかったのでした。ところが転職後、松本さんは従来の企業文化と向き合うことになります。伝統的な日本企業では、事務作業や庶務的な業務は女性が担当することもめずらしくありません。こっこーも例外ではありませんでした。そんな環境で不妊治療を始めることになった松本さん。直属の上司に相談すると、「無理せず何かあったら言って」という返事がありました。体外受精治療では、決まった時間に自分で注射を打たなければなりません。時間をずらすと一からやり直し。事前に説明して、会議の途中でも社内のトイレに行き、注射を打って戻る。そんな日々が続きました。女性社員に打ち明けてみたものの、治療への理解を得ることは難しく、静かに自分の中で消化していく決意をします。職場で上手に自己主張するそこで松本さんは、ある作戦を考えました。「明日も病院に行かないといけないので、遅れます」そう伝えるとき、あえて周りの反応を気にしないようにしたのです。わざと「空気を読まない人」を演じることで、自分のストレスを減らそうと考えたのでした。「すみません、でも頑張ります」そう言えば、上司も同僚も「じゃあ頑張って」と送り出してくれます。こうして、少しずつ理解を得ていきました。同時に松本さんは、チームの一員として仕事に向き合いました。「今日できることはありますか」と声をかけ、議事録作成など率先して引き受けていきます。通院の予定を伝えるときも、前向きな声かけを心がけました。治療に取り組む一方で、「可愛げ」のある態度が周囲との良好な関係づくりにつながっていったのです。出産・育児を経て管理職へ働き方改革の機運が高まる中、松本さんの職場であるこっこーも、柔軟な働き方を支援する制度の整備に積極的に取り組んできました。半休制度や時差出勤制度が導入され、いまでは育児や介護、通院など、理由を問わず社員が活用できるようになっています。そして松本さんは2018年3月に第一子を出産。会社の支援を受けながら1年待たずして復職し、短時間正社員制度を利用して徐々に仕事に慣れていきました。松本さんの前向きな姿勢は社内でも評価され、社内初の女性管理職へ。管理職となった松本さんも、自身の経験を活かしてより働きやすい環境作りに取り組んでいます。後輩に復帰のコツを伝授その一つが、妊娠・出産に関するガイドブックの作成です。「この時期はこれが辛いから、しんどかったら休んでいいんだよ」「上司への報告はこの時期がおすすめ」「お金の心配も分かるから、いつ頃給付金が入るか書いておくね」。先輩として、後輩たちの不安に寄り添うアドバイスを盛り込みました。現在、松本さんは凍結保存していた卵子で2人目を妊娠中です。会社の制度を活用しながら働き続けてきた経験から「フルタイムで復帰したいと思っても、まずは短時間で」と後輩にアドバイスします。「すぐにフルタイムで頑張りたい気持ちはよくわかります。でも、まずは短時間勤務からゆっくりはじめることで、子どものペースを見ながら、職場の仲間との関係も自然に作り直していけます。仕事の流れに少しずつなじんでいくことで、長い目で見ると、みんなにとって働きやすい環境が作れるんです」小さな一歩が未来を変える不妊治療と仕事の両立は、まだまだ課題が多いのが現状です。NPO法人FINEが実施した調査によると、働きながら不妊治療をした人の約96%が「両立は難しい」と回答し、そのうち約40%が「不妊治療のために働き方を変えた」と答えています。一方、不妊治療に関する支援制度がある企業は約6%にとどまっています。「絶対にあきらめないで」と松本さんは微笑みます。「一つの言葉や行動が、自分の、そして後に続く人の働きやすさにつながります。無理せず、でも何かやってみることをあきらめないでほしい」あなたの職場にも、治療をしながら働いている人がいるかもしれません。松本さんの上手な自己主張と、仕事への前向きな意思表示の仕方は、治療と仕事の両立に悩む誰かのヒントになるのではないでしょうか。一人ひとりの小さな挑戦が、働きやすい職場づくりにつながっていくはずです。株式会社こっこー