今、リスキリングが注目されています。AI時代のこれからを生き残るには専門性がないといけない。そんな話がまことしやかにささかれています。「なにかしなければ」と思ってはいても、自分のキャリアにコンプレックスがあってなかなか動けない人は多いかもしれません。異動を繰り返していた、バックオフィス業務ばかりだったなど。そんな方にご紹介したいのはJ.H.Wellnes代表の野々下直子さんです。野々下さんは早稲田大学卒業後、半導体の総合商社や大手IT企業、フィットネストレーナーを経て健康事業で起業した異色のキャリアを持っています。彼女のキャリアには一貫性がないように見えますが、実はすべてつながっていました。そんな野々下さんのキャリアには「強みの作り方」のヒントが隠れています。「できないのは努力が足りないから」なんでもできると思っていた20代24時間365日「いつも基本、仕事中」だという野々下さん。根っからの仕事好きのようですが、はじめからそうだったのでしょうか?全力でやっていたらチャンスがやって来た大学在学中、なかなか就職先を決めきれなかった野々下さんは、4年生の12月まで就活していました。滑り込みで就職した会社では、総務部に配属されることに。与えられた仕事は毎日届く郵便物を各部署に届けることでした。もしかすると大学を出てする仕事なの?と思うかもしれません。しかし野々下さんは「いかに誰よりも早く届けるか」というゲームを自分で考えて実践していました。7階建ての社屋を、エレベーターを使わずに走って届けていたそうです。そんな姿が役員の間で評判になり、役員の秘書に引き抜かれました。秘書の仕事をしているうちに、今度は全く畑が違う経営戦略室に配属されることになります。物事は段取りが大事転職を決意した野々下さんがエージェントに問い合わせると「今すごく元気な会社がある」と楽天を紹介されます。創業間もない当時、まだ楽天は今ほど知る人の少ない会社でした。トントン拍子に話が進み楽天で働くことになった野々下さんはM&Aを担当。どんどん関連会社が増えていき、管理の必要が出てきました。普通の管理では到底追いつかないので、システム課と一緒に管理システムを開発することになります。経営企画や管理業務に携わる中で、物事は段取りを整えることが大事、と学びました。「体には限界がある」を身をもって知った「自分は欲張り」だと話す野々下さん。いろんな物事を吸収したい。スキルを得たい。自分より少しでもできる人がいれば、その人よりもっとできるようになりたい。「できないのは努力が足りないだけだ」「もっとやればできる」という思いから頑張り続けます。基本的に自分にできないことはないと思っていたそうです。ところがある日、ひどい腹痛を感じて病院に行くことになりました。検査すると卵巣嚢腫ができていて、即入院を勧められることに。すぐ手術しなければならない状態で、予定していた仕事もすべてキャンセルしたそうです。このとき、野々下さんは「体には限界がある」という事実を身をもって知りました。コンプレックスを後天的に克服ここまでの話を聞いていると、野々下さんは男勝りのマッチョな女性だと思うかもしれません。しかし、この性格はもって生まれたものではなく、後天的なものでした。子どもにとっての1年は、大きな違いです。3月生まれの野々下さんは、同級生よりできないことが多くありました。声が小さい。授業中は手を挙げない。給食は時間内に食べきることができず、一人で食器を返しに行く。友達もできにくかった野々下さんが自分を「できる子」だと思ったことはなかったと言います。「弟のために」変わらなきゃそんな野々下さんが変わったのは、お父さまの仕事で台湾へ行き台北日本人学校に入ったときのこと。弟がいじめられたことがきっかけでした。発端は、大阪弁を話していたからとのこと。いじめの内容はどんどんエスカレートしていきました。こうしたことは、弟がはじめてではなく、これまでもあったことでしたが「これって、おかしいよね?」と思った野々下さん。何もしなければ、この後も同じ状態が続きます。「変わらなきゃ」と思った野々下さんは、児童会長に立候補したのでした。「自分のため」ではなく大切な「誰かのために」変わることを、野々下さんは小学生の頃に経験したのです。「誰かのために」立ち上がったら、キャリアがつながった現在、野々下さんが代表を務めるJ.H.Wellnessは「誰かのために」立ち上がろうとして起業した会社。起業までの経緯はどうだったのでしょうか?母になって子どもの未来に興味を持った卵巣嚢腫の後、野々下さんは自分のペースで働ける個人事業主へと働き方を変え、結婚しました。なかなか子どもに恵まれませんでしたが、激務から離れたせいか長男を授かります。あるとき子どもとテレビを見ていると、社会保障の話題が取り上げられていました。社会保障は近いうちに、これまでの騎馬戦型から肩車型になることを知りました。疑問を感じた野々下さんは、コーポレート業務に携わっていたときの経験を生かして、自治体の会計報告を調べます。そして予算の使い方に驚きました。皆保険制度の日本では、少しの本人負担で医療を受けられます。ところが年齢を重ねると、ぐっと医療費が跳ね上がることを知りました。大学でスポーツ科学を学んでいた野々下さんは、運動はさまざまな生活習慣病の予防になることを知っていました。病気になってからの通院や治療にお金と時間を使うのに、予防を重視しない保険制度の仕組みにおかしさを感じたそうです。「みんなで運動して健康でいれば、その分の予算を未来の子どものためにとっておけるのでは」と考えた野々下さんは、運動で体が変化するメカニズムを勉強し、スポーツジムトレーナになりました。仕組みで影響力を広げる。見たい未来に近づくにはしかし働くうち、コンスタントにジムの会費を払える人は、もともと健康意識の高い人であることに気づきます。運動指導者として週に数回、1回1時間程度の運動をしたところで社会に対する影響力は限られていると実感したそうです。そこで、自分が直接携わらなくても地域の健康を維持できる仕組みをつくることにしました。「健康づくりと人生を切り分けている人はめずらしくないかもしれません。けれど、最後まで自分のことを自分でできる体を作るのは、若いときから取り組んでおくことが大切です。それは自己決定でもあります。」自治体に働きかけをした野々下さんは、当時住んでいた横浜市の介護予防のモデル事業に関わることになりました。その後、2021年に熊本市に移住・会社を設立し、スタッフ数30人規模の事業を営んでいます。最初からきれいな1本道は描けないここまでの話をふまえると、野々下さんは仕事一辺倒のように思えるかもしれません。実際、仕事中心の暮らしと言っても過言ではないでしょう。しかし、ワーカーホリックというより「仕事は生活の一部。洗濯物を取り込むのと同じような感覚」と野々下さんは話します。一度、体を壊している彼女は、自分の限界もわかっています。そのため、周りに気づいてもらえるようサインを送るときも、相手が嫌にならないようにすることを心がけているのです。たとえば「嫌だな」とか「疲れた」といったマイナスの感情は、ストレートに出すと周りの人たちを不快にしてしまいます。そのようなときは、子ども部屋に行って、子どもに話しかけたり、甘えたりしているそうです。誰もが経験と知識を持っている野々下さんの根底にあるのは、自分が生きているうちに社会をほんの少しだけ変えたいという思い。子どもたちやその子孫が「暮らしていきやすいように、その環境づくりをしたい」という信念が先にあります。同時に、野々下さんは、客観的に自分を見ることもできる女性でもあります。自分の態度や発した言葉が周囲に与える影響を考えられるメタ認知のスキルや対人スキルも、これまでの経験や知識を総動員した成果と言えるでしょう。ある意味、キャリアは後付けなのかもしれません。野々下さんのストーリーからは「最初からきれいな1本道は描けない」ことがわかります。強みがないと悩む人は、どんな未来を作りたいのかを先に考えてみるとよさそうです。