都会の喧騒から離れ、雄大な自然の中に身を置く。深呼吸と共に、日常で淀んだ心が洗われていくような感覚。コロナ禍を経て、そんな癒しを求めて山に登る人が増えています。四季折々の表情を見せる山は、私たちに癒しだけでなく、様々な感動を与えてくれます。しかし、山は単なる癒しの場ではありません。金融業界で働く傍ら、登山ガイドとしても活動を始めた吉澤紋子さん(以下、吉澤さん)。大学時代にワンダーフォーゲル部に所属し、山に魅了されたという彼女は、仕事と山には多くの共通点があると言います。一体、仕事と山にどんな共通点があるのでしょうか? 山の日がある8月は、金融業界と山の二つの顔を持つ吉澤さんのストーリーから、その答えを探ってみましょう。「マーケットはおもしろい」金融業界に30年大学で国際経済政策を学んだ後、証券会社へ入社した吉澤さん。総合職での入社で、当時同期の女性は3人だったそうです。狭き門を突破し、かなりの期待を背負っての会社員生活スタートでした。そもそもなぜ金融に興味を持ったのでしょうか。吉澤さんはこのように言います。「資本主義の世界では、お金は欠かすことのできない存在です。経済ってダイナミックなんですよね。常に動くマーケットは見ていておもしろく、飽きることがありません。」証券会社を退社後はいくつか金融系の企業に勤め、現在は資産運用会社で働く吉澤さんは約款や有価証券届出書、目論見書など、個人向け投資信託の資料全般を作成する仕事をしています。「金融商品も一般の商品と同様、見せ方や条件を詳細に決めるんです。いろいろな人たちと協働して商品をつくるのはとてもやりがいがあります。仕事は本気を見せる場所です」山が見えなくてさみしい「仕事は生きることと同じくらい、全精力を向けるもの」そう話す吉澤さんが仕事と同じくらい夢中になっているのが山です。大学のワンダーフォーゲル部で山の魅力を知った吉澤さんが、社会人になって再び山を目指すようになるまでに、それほど時間はかかりませんでした。「東京に出てきたとき、最初に住んだのが江戸川区でした。東京は高崎に比べると見渡す限り平らで、山が見えないことに寂しさを感じました」。2007年に証券取引法が金融商品取引法に変わり、その対応に追われていたときも週末は山に行っていたそう。日本百名山に挑戦したり、イタリアのトレイルランに参加したり、平日も休日もアクティブに過ごしてきたそうです。登山ガイドで山の楽しさを分かち合う3年超にわたるコロナ禍で、自分を見つめ直し、大切なものに気づいた人も多いはず。以前から山に親しんでいた吉澤さんでしたが、制約の多い時期を過ごすうち、山の魅力を再認識しました。自然は素の自分に戻れる場所「もっと山の魅力を伝えたい」そう考えた吉澤さんは、2024年に登山ガイドの資格を取得しました。登山ガイドは、山に登りたいけれど方法がわからない人のために、適切なコースを提案したり、ペース配分を考えたりします。ときには一緒に登りながら、登山者の水分補給や栄養補給などの健康面もアドバイスするそうです。「自然の中にいるだけで、素の自分に戻れることを実感します。自然に触れる機会を増やすと幸福感を得られるし、自然が人に与える影響って大きいんですよね。登山で山頂に立つ必要は必ずしもなくて、ただ挑戦するものが目の前にあることは、人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか」。実際に山を歩いた際の爽快感は、セロトニンという「幸せホルモン」の影響だそうです。今の仕事を続けながら、週末は登山ガイドとしてたくさんの人と知り合い、山の楽しさを分かち合うことが吉澤さんの今後の目標です。あなたは何を守りたい?優先順位のつけ方仕事も山の活動も全力で取り組む吉澤さん。しかし、これほど好きなことに情熱を傾けることができるのは、なぜなのでしょうか?それは、吉澤さんの人生観を変える出来事がきっかけでした。実姉が病気で亡くなったのです。「山も一緒に行っていた姉が亡くなって、人生は思っているよりも短いかもしれない、と思いました。それから一度きりの自分の人生を生きるために、自分がどうしたいのかを問うようになりました」。「人生は短い。自分がどうしたいのかを1番に考えたい」そう思いながらも、なかなかできない人の方が多いでしょう。吉澤さんは言います。「自分は何を守りたいのかということではないでしょうか。良い妻でいたい。良い母でいたいなど、いろいろあるとは思うけれど、私は自分の意思を守りたいと考えています。何をしたいのか、どうありたいのかは、その人の優先順位のつけ方次第です」。過ごす時間の長さは関係ない「“良い母”にもいろいろな考え方がありますが、私は子どもと長く過ごすことが、必ずしも良い母の条件だとは思っていません。もちろん、いつもそばにいてくれる安心感は何者にも代えがたいでしょう。ただ、私は必要なときに手を差し伸べられる立ち位置で、背中を見せることで、子どもに自ら学び取って欲しいと考えているのです」。過ごした時間の長さではなく、短い時間の中でも「自分が何を大切にしているのか」を伝えていく。困ったときには助けられる。「親子の形はさまざまで良い」と感じる話ですね。「目標を持って進む」仕事と山の共通点ところで、仕事と山はどこが似ているのでしょうか。吉澤さんは次のように答えてくれました。「共通点は目標に向かって進んでいくことですね。常に何かにチャレンジしていきたいので、いくつになっても新しい挑戦を続けていくような生き方をしたいと思っています」。そんなチャレンジ精神旺盛な吉澤さんは、フルマラソンにも挑戦中です。直近の目標は、走行時間3時間半を切ることだそう。目標を持って取り組めば、新たな目標が生まれ、どんどん自分を更新していけるのでしょう。新しい自分を見つけられる可能性もありますよね。他方、仕事には終わりがありますが、山には終わりがありません。家族の死をきっかけに、人生観が変わった吉澤さんは、いつも「自分の意思」を守って、やりたいことに挑戦し続けてきました。妻だから、母だからといって何かをあきめる必要はない。今後も吉澤さんのチャレンジは続きます。(文:但住奈都貴/写真:吉澤紋子さん提供)