ソウル在住の川口慶子さん(以下、慶子さん)は、渡韓して16年になる。アメリカの大学院で外国語教育を学び、現地で職に就く機会を得たものの、悩んだ末に韓国人の恋人との結婚を選んだ。ソウルに住み始めて2年後、アメリカでの縁が偶然つながり、大学で日本語を教えることになった。 韓国の日本語教育をめぐる急激な変化に揉まれ、葛藤しながらも、子供の小学校入学と同じタイミングで博士課程に進学。現在では、育児・仕事・研究の3足の草鞋を履きつつ、日本にルーツを持つ子供たちの日本語教育環境を整える活動にも力を入れている。「仕事の代わりはあるけれど、フィアンセの代わりはいない」アメリカでのキャリアではなく結婚を選び、渡韓右側が慶子さん。アメリカの大学院のキャンパスで、韓国人の親友との一枚。毎日この道を歩いて、講義を受ける教室に通った。慶子さんがアメリカの大学院進学を目指したのは、学部時代の語学留学がきっかけだった。周囲に院進学の志望者が多く、刺激を受けて自分にもできるんじゃないかと思うようになった。親族内では前例がなく父親は大反対したが、母親と祖母が応援してくれた。ペンシルバニア州の大学院に進学し、外国語教授法を学んだ。在学中から日本語を教え始め、卒業後も大学で日本語講師として働いた。OPT(*)の期限がきれる頃、当時の上司から「正式なビザを出すから、このまま残って欲しい」といわれた。仕事に手応えを感じていた慶子さんにとって願ってもない申し出だったが、アメリカで出会い、すでにプロポーズを受けていた韓国人の恋人からは反対された。(*OPT=Optional Practical Trainingの略。アメリカでは大学・大学院を卒業した留学生に対し、「専攻分野にかかわる業種であれば、卒業後1年に限ってアメリカで就労研修を受けてもよい」という制度がある)迷いに迷い、正直に事情を説明して相談したところ、上司からこう言われた。 「仕事の代わりはいくらでもあるけれど、フィアンセの代わりはいないよ」 上司のその言葉が胸にすとんときて、慶子さんは迷いをふっきることができた。仕事のオファーを辞退して日本に帰国し、その数ヶ月後に韓国に発った。アメリカでの縁がつながり、ソウルの大学で日本語を教えることに渡韓当初から15年間住んだソウル市龍山区。日本人が多く住む地域として知られている。韓国の冬は寒さが厳しいが、オンドルと呼ばれる床暖房が整っている室内は暖かい。渡韓後、ソウルの語学学校で韓国語を学んだ。当初はすべてが新鮮で海外旅行気分を楽しんでいたが、生活に慣れるにつれ次第にもやもやとした気持ちが生まれた。「韓国語もろくにできず、ここでなにができるかもわかりませんでした。仕事どころか、銀行にもひとりで行けなくて。アメリカの大学院にまで行ったのになにをやっているんだろう、ビザをもらってあのまま仕事を続けてたら、と落ちこみました」そんな日々を過ごす慶子さんのもとに、ある日思いがけない連絡が入った。韓国行きを勧めてくれた、アメリカの元上司からだった。なんでも、出席した学会で韓国在住の日本人教授と知り合い、「教え子が結婚のために韓国に移住したので、現地の生活に馴染めるようにいろいろと教えてあげて欲しい」と慶子さんのことを頼んでくれたのだという。元上司の心遣いが嬉しく、すぐにS教授に連絡をとった。S教授は快く応じてくれ、自身が会長を務める研究会にも入るよう勧めてくれた。それから間もなくして、S教授から電話が入った。「崇実大学が日本語を教えられるネイティブの講師を探しているらしいんだけど、やってみる?」 快諾した。アメリカでの縁が韓国でつながった。渡韓して2年後の、2006年のことだった。運がいいことに、当時は在韓日本語講師にとって景気がいい時代だった。日韓ワールドカップ(2002年)や第1次韓流ブーム(2003年に日本で『冬のソナタ』放映開始)が重なり、かつてなく良好な日韓関係の影響を受けて、日本語学習者が急増していた。ネイティブの日本語講師の数が足りておらず、慶子さんにも次から次へと仕事の依頼が殺到し、断らざるを得ないほどだった。崇実大学での仕事は非常勤だったため、いくつもの仕事をかけもちする時期が続いた。「あなたならできる」 先輩研究者の一言が動き出すきっかけに研究会主催の日本語講師向け講義で、講師を務めている姿。教壇に立ちながらも、今後が見えず悶々としていた時期。ところが、その後日本語講師をとりまく環境が変化しはじめた。 日韓関係の悪化や中国語人気の上昇にともない、日本語学習者が減少。一方、ネイティブの在韓日本語講師は増加し、仕事の量があきらかに減りつつあった。 従来、ネイティブ講師が大学で日本語を教えるには修士号があれば充分だったが、より高い学歴が求められるようになってきた。「アンテナが立ってる子たちは状況変化を読みとり、どんどん先に博士号をとり、非常勤から定職に就き始めました。わたしは流れについていけなかった。2012〜3年頃には、大きな差がついていましたね。完全に乗り遅れた、遅かったなって」崇実大学での仕事も勤務歴が5〜6年にもなると「専門分野は?」と聞かれることが増えた。研究機関である大学で日本語を教え続けるのであれば、博士号をとり、専門分野の研究もする必要性を痛感するようになった。そう感じながらも、博士号をとることには気持ちが向かなかった。2008年に子供を出産し、仕事と育児だけで手一杯の日々。そのうえ自分の研究までできるとは思えなかった。まわりの声に押しきられ、気の進まないまま学会で発表したこともあったが、研究の場から離れてひさしく不慣れなことばかりで、散々な出来だった。余計に自信を失った。「非常勤の仕事は減っていくし、この先続けていけるかどうか不安で、萎縮してしまって。もともと好きだったはずの教える仕事を、楽しめなくなっていました」悩みながらも動き出せないまま、数年が過ぎていった。そんなある日、思わぬ転機が訪れた。研究会の会長職にならないかと、声をかけられたのだ。勧めてくれたのは、先輩研究者Hさんだった。その時点では会員が10数名足らずの小規模な研究会だったが、自分に務まるとは思えず固辞しようとする慶子さんに、Hさんはこう言った。「あなたならできる。なぜそんなに自信がないの?立場がひとを育てるの。役職に就けばその立場に合うように成長していくものなの。だから、自信がなくてもやってみなさい」Hさんはこれまでも事あるごとに頼ってきた、姉のような存在だった。そのHさんがそこまでいうならと、会長職を引き受けることにした。間もなくして、研究会と外部の大学との共同プロジェクトが始まり、会長職の慶子さんもメンバーとして加わることになる。ところが、大学の公式プロジェクトのメンバーとしては、慶子さんの職歴と学歴が不足しているという。条件を満たすため、急遽英文で論文を書くことを求められた。当時の慶子さんにとっては、論文を書くだけでも相当なプレッシャーだった。さらには、10年ぶりの英語での執筆。極度の緊張でパニック状態に陥り、パソコンに向かう手が震え、キーを打てないこともあった。それでも必死に取り組み、なんとか2〜3週間で書き上げた。おそるおそる英語ネイティブの研究者にみせると、「とても興味深い論文だ」と褒めてくれた。 嬉しかった。仕事での手応えを感じられたのは、本当にひさしぶりだった。「一緒に1年生だね」子供の小学校入学と同時に博士課程に進学大学院学位授与式での1枚。博士論文執筆中、母親が何度も日本から駆けつけ、家や子供のことを手伝ってくれた。卒業後、感謝の気持ちを込めて、親子3代でチェコのプラハに旅行をした。その直後、O教授とキャンパス内ですれちがい、昼食を共にすることになった。O教授は、崇実大学での仕事の紹介を受けたとき、慶子さんが最初に連絡をとった相手だった。当初から慶子さんのことを気にかけてくれ、なにかとお世話になっていた。今後どうしていきたいかを尋ねるO教授に、「もうちょっと研究をやってみたいと考えています」と慶子さんは答えた。英文での論文執筆を終える前なら、とても出てこなかっただろう言葉だった。1週間後、O教授から電話があった。「うちの大学院の募集要項が出た。迷うならここでやってみたら?」そう提案してくれたのだ。それまで、崇実大学での博士号取得は選択肢になかった。しかし、考えれば考えるほど、しっくりくるように感じた。「できるかもしれない」はじめてそう思えた。韓国で日本語関係の博士号をとるのであれば、高麗大か韓国外大と決まっているようなところがある。学歴が重視される業界でもあることから、崇実大学で博士号をとるという慶子さんの選択に、まわりはみな反対した。だが、韓国内はもとよりアメリカや日本まで範囲にいれて悩んだのち、ようやくたどり着いた決断だった。育児、仕事、研究という3足の草鞋を履くうえでも、仕事と研究の場が同じだというのは1番いい選択に思えた。O教授が指導教授を務めてくれるというのも、心強かった。2015年、子供の小学校入学と同時に、慶子さんの博士課程も始まった。「一緒に1年生だね」と子供と笑いあった。韓国の小学校は下校時間が早く、特に1年生はお昼前後に帰宅する日がほとんどだ。時間の調整ができない日は家政婦さんをお願いしたり、近所に住む友人たちを頼ったりして、なんとかしのいだ。研究分野は、継承日本語にした。継承語(Heritage Language)とは、親から引き継がれる言葉を意味する。在韓日韓夫婦である自分たちの子供にとっては、日本語と韓国語がそれにあたるが、現地語ではない日本語力の維持・向上が今後の課題となることは明らかで、当事者として深い関心があった。日本にルーツを持つ子供たちに日本語教育環境を慶子さんが仲間たちと共に6年間続けている、日本語教室での一枚。日本語補習校のない韓国では、各地域で親の自主努力による小規模の日本語教室が数多く運営されている。アメリカの院で学んでいた当時、現地では継承語の研究がすでに盛んだった。移民の子供たちへの英語教育はもちろんのこと、親の母語の言語教育に関する研究も積極的に行われていた。折しも韓国では国際結婚の急増に伴い、移民当事者およびその子供たちへの韓国語教育施策が積極的に打ち出されるようになった。一方、移民の母語の言語継承については「家庭の教育」の範疇とみなされ、その重要性が理解されているとはいいがたい状況だった。まずは現状の把握が必要だと考え、日韓夫婦の子供たちの日本語能力調査を行い、3ヶ月間で首都圏在住の小学生100人強のデータをとった。その結果、居住地域や親のネットワークにより子供の日本語能力に大きな差が生じ、個々の親の努力でカバーしようとしても限界があることがわかった。「子供に日本語を学ばせる場としては補習校が1番望ましいのだろうけど、わたしたちの努力だけでどうにかなることでもありません。じゃあなにもできないのかといったらそんなことはなくて、各地で健闘している小さなコミュニティをつなげて、情報ネットワークを作ろうとしています」所属する研究会では、各地の取り組みを紹介したり、専門家のセミナーを開いたりといった活動もしている。このネットワークをより広げていくために、全国の実態調査を進めているところだ。「継承語の重要性への理解が日韓でも徐々に進みつつあるのを実感しています。この変換期に、ここで継承日本語の研究をしていることが、すごく不思議に思えるんですよね」最初から明確な目的意識をもって、今の場所を目指してきたわけではない。ちょっとした出会いや身近なひとの一言がきっかけとなって行動を起こし、その積み重ねでここにいる。「アメリカでの経験が無駄だったように感じた時期もあるけれど、当時学んだことがいま、すごく活かされています。今後は韓国の状況を海外に発信していきたいので、英文で論文を書くスキルも役に立ちますし。20年経ってふりかえって、すべてがつながっているんだなとようやく実感できるようになりました」慶子さんが所属する韓国継承日本語教育研究会では、各地域の日本語教室の取り組みを紹介したり、日本語教育の専門家によるセミナーを開くといった活動をしています。また、記事内で紹介しきれなかった慶子さんの研究内容、活動、継承日本語をめぐる動きについて、以下にまとめてあります(一部記事の内容と重複します)。合わせてご参照ください。「日本にルーツを持つ子供たちに日本語教育環境を」