Molecule(マレキュール)をご覧の皆様、はじめまして。出版パラレルワーカーの岸 志帆莉と申します。現在出版社に勤めながら、複業で教育ライターおよび翻訳者として活動しています。プライベートでは、イヤイヤ期真っ盛りの二歳児の母です。「出版パラレルワーカー」という肩書は自分自身でつけました。様々なお仕事をしていますが、軸はすべて出版あるいは言葉に関わることです。現在の働き方に落ち着くまで、ずいぶん遠回りをしました。二度のリストラや体調不良など挫折も経験しました。一方、社会人大学院や海外留学などたくさんのチャレンジもしてきました。挫折と挑戦の日々を経て、この秋ようやく今の働き方にたどり着きました。この記事では、私が遠回りを経て自分の原点に立ち返るまでの道筋を振り返ります。「書くことが好き」と自覚した高校生時代幼い頃から書くことが好きな子どもでした。オリジナルの絵本や漫画を描いては親に見せたりしていました。友達との手紙交換や交換日記も大好きでした。しかし当時は、特別書くことが好きという自覚はありませんでした。 書くことへの思いを初めて自覚したのは高校一年生の時です。入学式で新入生代表として答辞を読むことになりました。元々私が読む予定ではありませんでしたが、いくつか事情が重なり私のところに話が来ました。「どうせ代理なんだし、好き勝手にやろう」深く考えもせず、思いつくがままを書き連ねました。今考えれば、相当型破りな答辞だったと思います。しかし意外にも周囲から好評を得ました。 ある日同級生とたわいもない話をしていたとき、友人が私にこう言いました。「あなたの文章はいいよ。書くことを仕事にしたほうがいいよ」 誰かからそんな風に褒められたのは初めてのことでした。それがきっかけとなり、いつしか言葉に関わる仕事を夢見るようになりました。学生時代はジャーナリズムにも関心を持ち、報道研究会への入部を検討しました。そんな折、ある人から言われた一言で私は冷静になりました。 「公に対して何かを発信するときは、慎重になったほうが良いよ」 この一言に、私は怖気づいてしまいました。公に対し何かを発言できるような見識と覚悟が、果たして自分にあるだろうか? いずれも当時の私にはありませんでした。それ以来、文章の世界に憧れを抱きながらも、ずっと敬遠し続けていました。 激務による病と二度のリストラを経て、夢の出版業界へしかし表現への憧れは捨てきれず、新卒では映像業界に入りました。仲間にも恵まれ、忙しくも充実した日々を送っていました。しかし映像について知れば知るほど、「何か違う」という葛藤が生まれました。 激務も重なりました。帰宅は毎晩終電、場合によっては午前様でした。周りは映像作家やプロデューサー志望ばかり。厳しい環境をものともせず、必死に食らいついていました。そんな周囲との温度差も感じました。さらには仕事でいくつかのトラブルが重なり、そこからは割れたガラスのように、一気に自分が壊れていきました。 身体がだるく、無気力な日々が続きました。気付けば何時間も涙を流していました。人に手を引かれなければ歩けなくなりました。辛さがピークだった時は、路上でところかまわず座り込んだり、その辺のベンチで寝込んだりしてしまうありさまでした。環境を変えなければならないことは明白でした。潮時と判断し、転職活動をしました。時はリーマンショックの直後。一筋縄ではいきませんでしたが、春までに何とか転職先を見つけることができました。心機一転、新しい仕事がスタートしました。入社から10日ほど経ったある日のこと。出社して早々、社長室に呼ばれました。何事かと赴くと、開口一番に解雇を告げられました。理由ははっきりしませんでした。とにかくその日中に荷物をまとめ、出て行かなければならないということでした。あまりのことに呆然と立ち尽くしました。その日どうやって帰宅したか、記憶がありません。数日後、自宅のテレビでふと目にしたニュースに衝撃を受けました。その会社がある事件を起こし、倒産したことを知りました。しばし路頭に迷った後、とある不動産会社に拾われました。今度こそ長く働きたい。その一心で、一所懸命に勤めました。しかしその会社での日々も長くは続きませんでした。時はリーマンショックの翌年。勤務先も甚大なダメージを受けていました。入社から一年後、営業所の閉鎖が決まりました。解雇を告げられた日、どうやって家まで帰り着いたか、やっぱり覚えていません。とりあえず、最後の仕事と片付けをしに、翌日会社へ行ったことだけは覚えています。またしても私は生活の糧を失いました。二度のリストラを経て、金銭的にも精神的にもすっかり路頭に迷ってしまいました。もはやこの先どうすればよいのか、どうやって食べていけばいいのか、見当もつきませんでした。そんな中、スマートフォンの画面に現れた求人広告が目に留まりました。とある出版社の求人広告でした。良く知った会社でした。思考が停止していて記憶にないのですが、応募ボタンを指で押していたようです。翌日その会社から連絡が来ました。そしてご縁あり、正社員として採用されました。勤務先のイギリス本社前にて海外大学院へ「オンライン留学」し教育について学ぶ大好きな本に囲まれながら働く日々は夢のようでした。自分の身に起こった幸運が信じられませんでした。無我夢中で仕事にのめり込みました。一方、仕事を覚えるうちに、自分の中の課題も明確になってきました。学術出版社ということもあり、お客様の大半は教育関係者や研究者でした。それらの方々の対応をするには、商品知識だけでなく、教育そのものに対する深い知識が必要となります。当時の私には、教育に関する知識も経験もほとんどありませんでした。悩んだ末、大学院で教育を学ぶことを考えました。とはいえ、フルタイム勤務かつ当時新婚だった私にとって、夜間や週末の通学はハードルの高いものでした。やはり仕事や家庭を持ちながら学び続けることは難しいのだろうか。そんな矢先、あるGoogleの検索広告が目に留まりました。海外大学院のオンラインコースの案内でした。教育分野では世界最高峰と言われる、UCLの教育大学院の修士コースでした。UCLといえば、古くから世界に門戸を開いてきたイギリスの名門大学です。日本人の出身生には、伊藤博文や夏目漱石がいます。さらに通信教育課程の卒業生には、27年間にわたる投獄生活の中で法律を学んだネルソン・マンデラがいます。 胸が高鳴りました。仕事と並行しながら受験準備を進め、2014年夏、はれてUCLの教育学修士課程に入学しました。そこから二年間、日本で働きながらオンラインでイギリスの大学院に「留学」する生活が始まりました。ビジネスマンであり妻であり、学生でもあるという、三つのわらじを履く生活でした。想像を絶するほど多忙な日々でしたが、めいっぱい充実した日々でもありました。大学院入学時の現地オリエンテーションにて。クラスメイトとランチ一方で、新たなジレンマも生まれました。教育は、結局現場が全ての世界です。大学院の学びによって膨大な知識は入ってきました。しかし現場経験がないために、教育現場の問題に対して実感をもって向き合えないことが新たな課題となりました。同時に、教育出版はまさに変革のタイミングを迎えようとしていました。紙からデジタルへと、パラダイムシフトが起こっていました。デジタル教育について学ばなければという課題感は、いつしか純粋な興味に変わっていきました。教育の実務経験を積みたい。デジタル教育についても、もっと学びたい。そう思っていた矢先、修士論文の指導教官が一つの提案をしてくれました。まさかの、フランスの大学院への進学でした。 指導教官が薦めてくれたのは、フランスの国立パリ大学の教育工学修士課程でした。まさに自分が学びたいと思っていたデジタル教育のコースです。さらに一年間の課程のうち半年間は、教育現場でインターンシップ経験も積めるということでした。願ってもない機会でした。 しかしここでまた悩みが頭をもたげました。この選択肢を取るとしたら、今度こそ夫と別居しなくてはなりません。誰にも相談できず、胃に穴が開くほど悩み続けました。しかし、この機会を逃したら、もう二度とこんな機会は訪れないことはわかっていました。離婚を切り出されても、主人側の家族に勘当されても仕方ない。そんな思いで最終的に主人に話をしました。彼は背中を押してくれました。フランスへ。デジタル教育を学びながら自分の軸を模索する日々30歳の夏、フランスに降り立ちました。パリの街の美しさに浸る間もなく、多忙な日々が始まりました。最初の数ヶ月は自宅と大学の往復で過ぎていきました。はじめてシャンゼリゼ通りと凱旋門を見たのは、到着後4ヵ月がたってからのことでした。フランス語ができないと生活ができないことを実感し、大学院の研究と並行してフランス語の勉強も始めました。デジタル教育の世界にどっぷりと浸かり、ひたすら知識や情報を吸収しました。念願の学校実習も経験しました。パリ市内のインターナショナルスクールに採用され、世界65カ国から集まった子供たちと共に過ごしました。学校では情報科の補助教員として、ICTの授業を担当しました。さらに「テック・チーム」というクラブ活動の手伝いもしました。 子どもたちが主体となり、テクノロジーを使って様々な活動を行う課外活動です。子どもたちと一緒にYoutube番組を作ったり、ウェブメディアを作ったりしました。先生として毎日校内を駆け回った日々は輝かしい思い出です。一年間の留学を終え、帰国後は出版社に復職しました。復帰後は様々な仕事を経験させて頂きました。お客様に直接関わるお仕事だけでなく、イベント企画やプロモーションなど、仕事の幅がどんどん広がっていきました。研究発表後の一コマ。パリ市庁舎にてコロナ禍の保活惨敗。自分の軸ととことん向き合う仕事が忙しくなってきた頃、第一子を妊娠しました。産後は慣れない子育てに没頭するうち、あっという間に半年ほどが過ぎました。復職に備えて少しずつ準備を進めていた矢先、保育園に落選してしまいました。時を同じくして、コロナショック。感染拡大の脅威が広がる中、一から保活を再開しました。このまま復職できなかったらどうしよう。コロナ禍で仕事を失ったらどうしよう。 連日不安に苛まれました。原因不明の腹痛や過呼吸に苦しみました。三月半ばのある日、近所の認可外保育園から受け入れのお電話がかかってきました。認可外の中では第一希望の保育園でした。タイミング的に、恐らく三次募集くらいだったと思います。首の皮一枚で、キャリアがつながりました。そんな中、緊急事態宣言が発令。保育園は見つかったものの、今度は会社都合で復職が何度も延期されました。育休の延長により、育児休業手当の支給もストップ。無収入生活に入りました。復職予定も一向に定まらないまま、何もかもが宙ぶらりんの日々が続きました。自分はずっと働き続けていくのだと、当たり前のように考えていました。しかしそんなビジョンは今や根底から揺らいでいました。連日連夜、今後について死に物狂いで考えました。キャリアの棚卸や転職活動などもしてみました。そんな中、ひとつの明確な事実とぶちあたりました。 私はやっぱり、書くことで世の中に貢献したい。求人サイトを日夜眺める中、気付いたことがありました。ライターや編集といった言葉に関わる仕事ばかりを無意識に目で追っていたのです。これまで「本や活字のすばらしさを広めること」が自分の使命だと思ってきました。それ自体は決して間違いではありません。しかしそこには一つの重要な観点が抜け落ちていました。「書くことによって」という、手段(How)の部分でした。「書くことが好き」という原点に立ち返る自分は書きたいんだ。 原点に立ち戻った私は、「書くこと」を軸に次の一手を考え始めました。しかしそこで厳しい現実にぶち当たりました。自分には何もできない、という恐ろしい現実です。これまで十年間出版社に勤めてきましたが、明日いきなり何がしかのテーマで記事を書けと言われても、できるかどうか自信がありません。これまでインハウスで様々な文章を書いてきましたが、いわゆるライターとして文章を生業に生きてきたわけではありません。今独り立ちしたところで、自分に原稿料に値する記事を書き続けることができるのだろうか。 この「できるかわからない」という事こそが最大の問題でした。実績がないから、どこまでやれるかが自分でも分からない。しかも実績がない状態で仕事がもらえほど、世の中甘くもありません。じゃあどうすれば良いか。実績がないなら作ればいい、というシンプルな考えに至りました。そこからは猪突猛進で行動し続けました。まず知り合いの起業家の方から絵本の翻訳を受注しました。そこから翻訳の仕事を広げていきました。また複数のメディアでライターとして記事を書かせて頂くことになりました。このMolecule(マレキュール)も、その一つです。同時にライティングを一から学びなおすことにしました。編集ライターの登竜門として名高いライティング講座に勢いで申込みをしました。毎回指定される課題に目を回しながらも、なんとか食らいついています。 書くことを軸に、仕事以外でも様々な活動を始めました。noteのアカウントを開設して、これまで培ってきた教育の知識や過去の経験などを発信しはじめました。それがきっかけとなり、雑誌に出させて頂いたり、インタビューをお受けしたりなど、思いもよらない展開が起こりました。また公募やメディアへの寄稿も積極的にはじめました。書評をメディアに取り上げて頂いたり、新聞社の読者投稿欄に応募したら公式Twitterで拡散して頂いたりと、色々なことが起こりました。学生時代から見失っていた書くことの喜びを、今ようやく取り戻しつつあります。「出版パラレルワーカー」として「書くことが好き」という気持ちは、ずっと昔から自分の根底にありました。しかしその気持ちと正面から向き合えるまで、二十年近くも遠回りをしてきました。自分の心に蓋をして、ずっと見て見ぬふりをしてきました。 その背景には、恐れがあったと思います。周りからの言葉に怖気づいたというのもあります。しかし何よりも一番恐れていたのは、「自分の好きなことで失敗したら今度こそお終いだ」という、得体の知れない恐れでした。実態のない恐れを長い間胸に抱き、「書くこと」との真剣勝負を避けてきました。一方で憧れは捨てきれず、周到にそのまわりを迂回しながら生きてきました。自分でも「もう少し上手くやれなかったか」と思うこともあります。しかし、遠回りをしたからこそ得られたものもあります。初めから文章の道をまっすぐに進んでいたら、教育というテーマに出会うことはなかったかもしれません。イギリスの大学院に「オンライン留学」することも、ましてやフランス現地に留学することもなかったはずです。フランスの小学校で先生として世界中から来た子どもたちと過ごすことも、パリという美しい街で外国生活を送ることも、すべては私の人生に起こることなく通り過ぎていったことでしょう。 しかしこれらの経験なしに、今の自分を語ることはできません。パリのインターナショナルスクールにて。半年間の実習を終えてリストラや鬱といった人生で最も厳しい出来事ですら、私の人生の一部です。あれらの日々を乗り越えたからこそ、「書くことが好き」という自分の軸に立ち帰ることができました。さらには「教育・学び」という新たな軸を自分の中に取り込むことができました。私の軸は「文章表現を通して、読むことや学ぶことのすばらしさを人々に伝えること」です。今は胸を張ってそう言えます。そう考えれば、遠回りも悪くないものだと思います。これからも自分自身のスキルを磨きながら、一人でも多くの人に本や学びの素晴らしさを伝えられるよう、「出版パラレルワーカー」の道を邁進していきたいと思います。 Molecule(マレキュール)をご覧の皆様にも、日々育児や目の前の仕事に追われ、なにか遠回りをしているような感覚を抱いている方がいるかもしれません。でも、ひとこと言わせてください。その遠回りこそが、近い将来、キャリアをつなげてくれるかもしれません。そして長い目で見たとき、人生を何倍にも豊かに広げてくれるかもしれません。そのための今だと思って、遠回りもまた楽しむことができたらと思います。